『西洋政治思想史』 佐々木 毅著
- 作者: 佐々木毅,杉田敦,鷲見誠一
- 出版社/メーカー: 北樹出版
- 発売日: 1995/04
- メディア: 単行本
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おおよそ欧米の政治思想を語る上で外せない思想家は全てカヴァーされているけど、その分各思想家の考えの掘り下げは薄いかなぁって感じた。ただその分、現代の政治思想も押さえてあるので助かる。
しかし、3点7冊の西欧の政治思想の関連書を読んだけど、高校の時の倫理とか政経の授業ってほんとに良く出来ているんだなぁって思った(笑)。
古代ギリシャで生み出された徳を完成させるための政治哲学が、キリスト教思想や社会学などの挑戦を受けて紆余曲折を経て、現在は経済と切っても切れない関係になっているということなど、一本道ではない歩みが達観できて面白かった。
以下、『西欧政治思想史〈1〉政治哲学と政治の生誕』からの抜粋
政治制度は「事柄」、つまり政治的自然の様々な現象に内的な連関を与え、そして政治哲学は、これらの外的な「事柄」について意味のある命題を与えようとするのである。
ページ数不明
西欧政治思想の伝統は、いくらか相矛盾した二つの流れを明らかにしている。ひとつは無限に過去に戻ろうとする傾向、もうひとつは新しいものを積み上げていこうとする傾向である。もし、後者の表現が自動的な進歩という思想を意味するように聞こえるのなら、認識の新しい次元を切り開こうとする傾向があったと言い換えてもよいであろう。
P68~69
統一原理が取り除かれると、思想体系は均衡を失ってしまう。そのとき、副次的な思想が重要なものとなり、その代わりに中心的な思想が重要性を失って周辺に押しやられる。こうなるもの、すでに述べたとおり、そもそも政治理論とは相互に結びあわされた一組の概念ーー秩序、平和、正義、権力、法などーーから成り立っており、これを結びつけているのは一種の原理的観念であって、それがこの体系のそれぞれの部分のどれを強調するかを指示するからである。原理的観念を除いたり、それに著しい変更を加えたり、あるいはまた、一つないし少数の概念だけを特別に強調したりすれば、別の種類の理論になってしまう。
ページ数不明
政治技術がうむことなく妥協を求めるのは、本質的には抑圧のため技術は、それ以外にとるべき道がない状況に置いてのみ使われるべきだという信念に支えられているからである。
ページ数不明
数世紀にもわたって錬磨されてきた思想や概念は、絶対普遍の政治的知恵の源泉だと見なされるべきではない。むしろそれは、コミュニケーションをよくし、理解を助けるはたらきをする、絶え間なく変化する文法と語彙であるとみなされるべきである。こういったからといって、思想の遺産が持っている心理は、その場限りの有効性しか持たない。思想の有効性は、それがコミュニケーションの形式としてどれだけ効果的であるかにかかっているといいたいのである。
政治思想の伝統がはたしてきた役割はまた、そのような伝統の史的発展を研究することを正当化する根拠になる。プラトン、ロック、あるいはマルクスの著作を学ぶことによって、われわれが習熟するのは、われわれを助けて特定の世界、すなわち政治現象の世界へと導いてくれる、まずまずできあがった一群の語彙とひと組の範疇についてである。しかしそればかりではない。政治哲学の歴史が、これから以下の章でみるように、つぎつぎに思想家がわらわれて、政治の分析と理解とに新しい次元を加えてきたものである以上、この発展の研究は、好事家的な歴史研究への沈潜であるよりは、政治教育の一形式なのである。P71「伝統と革新」