明け方ごろの読書日記

ほぼ読んだ本の備忘録にしています。たまに映画や身辺雑記的ことも書いています。2014年2月から3月までの記事は、2009年頃から2014年3月までに読んだ本を時系列無視で一気にアップしたものです。

『エティカ (中公クラシックス) 』スピノザ著 『スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書) 』上野 修著

エティカ (中公クラシックス)

エティカ (中公クラシックス)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

中央公論社の世界の名著シリーズで読む。
 難しかった。記述はこの手の哲学書にしては平易ではあるのだけど、記述の体裁が厄介だった。これほど際立って風変わりな哲学の本はなかなか無いだろう。解説本として評価の高かった上野修さんの『スピノザの世界―神あるいは自然』を読んでいなければ、さっぱり理解できなかったところだった(読んでもよく分からなかったけど・・・)。

 スピノザという哲学者がどのようなことを考えたかというと、スピノザ自身の入門書とも言える『知性改善論』から抜き出すと
 

一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされるかぎりでよいとか悪いとかいえるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれの預かりうる真の善「本当のよいこと」で、他の全てを棄ててもただそれだけであれば心が刺激されるようななにかが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間ない最高の喜びを永遠に享受できるような、なにかそういうものは存在しないかどうか探求してみようと。

 この「エティカ」つまり「倫理学」と訳せる本書は倫理つまり、この謎を解く試みの書ともいえる。
 そしてこの哲学的に考える手法に選択したのがユークリッド幾何学だった。つまり、いくつかの概念に定義を与え、公理系を確立し定理を証明していくという手法を倫理学に導入した訳だった。
 最初にこの試みを知ったときは、なかなか面白そうな試みだなぁって思っていたけど、『エティカ』を読み進めるうちに投げ出したくなる気持ちを抑えるのに大変だった。
 ユークリッド幾何学の方法を導入した試みがどのようになったか、『エティカ』の第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」の定理三一を抜粋すると

定理31
 第三種の認識は、永遠であるかぎりの精神をその形相因とし、またそれに依存する。
証明
 精神は、自分の身体の本質を永遠の相のもとで考えるかぎりにおいてのみ、ものを永遠の相で考える〔この部の定理二九による。〕。言いかえれば、〔この部の定理二一と二三により〕精神は永遠であるかぎりにおいてのみ、ものを永遠の相のもとで考える。したがって、〔前定理により〕精神は、永遠であるかぎりにおいて、神を認識する。しかもこの認識は、必然的に十全である〔第二部定理四六による〕。それゆえ、精神は永遠であるかぎり、この与えられた神の認識から生じうるいっさいのことがらを認識しうる〔第二部定理四〇による。〕すなわち、ものを第三種の認識によって認識しうる〔第二部定理四〇の注解二の第三種の認識の定義を見られたい〕。それゆえ、〔第三部定義一により〕精神は永遠であるかぎり、この種の認識の十全な原因あるいは形相因である。かくてこの定理は証明された。p.363

もうお手上げ(笑)。一応二部の定理二五まではノートに書いて参照していたけど、それ以降は諦めた(苦笑)。多数の定義、公理、定理が複雑に入り混じっているので把握するのが大変だったんです。それにユークリッドの公理はすんなり受け入れられるのに対して、スピノザの立てる公理はそれを受け入れること自体が哲学的検討が必要なものがあったりしたのも大きかった(上野さんはとりあえず受け入れて読み進めていけばいいと書いていた)と思う。

 スピノザの有名なキーワードである「神即自然」という概念が東洋的といわれている。私もそういった理解をしたけど、日本のアニミズムとか神道的な理解とは少し違うかな?って感じた。

           神                       
          ↓創造                      神=自然
           自然           
        スピノザ以外                      スピノザ

 という図式は東洋的なアニミズムに近いけど、スピノザのいう神は人格神的な存在ではなくて、宇宙の法則とか根本的な唯一かつ絶対の実体的な存在なので、八百万の神様達が~っていう理解は端的に間違いだったと思った。
 また、上の神の考察を続けた結果人間には自由意志が存在しないと結論付けている。

 上野さんの『スピノザの世界―神あるいは自然』を読んでいて、自己肯定の流れがニーチェっぽいなぁって思っていたら、ニーチェ自身もスピノザのことを好意的に見ていたらしい。

 スピノザは真理に到達していると言えるためには、精神はどのように世界を認識していなければならないかというデカルト心身二元論を批判して、スピノザはそもそも現に若干の真理に到達している我々の精神のようなものがこの世に存在するには、世界はどうなっていなければならないのか、と問いを反転させてしまった。
 また、スピノザは原因と理由をしばしば等値し、目的に対して湧き上がるとされていた衝動を、目的とは衝動のことであり、この衝動こそ我々を肯定し続け、我々を我々自身にしている現実的本質に他ならないとした。そして、目的と衝動の間のズレこそがスピノザ理解のための決定的なカギと上野さんは強調している。
 当初はあまり興味を惹かなかったスピノザだったけど、なかなか興味深い読書だった。しかし、『スピノザの世界―神あるいは自然』は本当によくできた解説書だわ。